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26聖人殉教の地
 

 キリスト教弾圧


歴史を振り返ると、人間はたくさんの過ちを犯して

現在に至ってきたことがよくわかる。

「今の日本は最悪だ!」

などと言われたりしているのをよく耳にするが

過去の歴史を振り返ってみれば

今の日本は充分良い方だと思う。

昔はそういった批判さえできない時代があった。

批判をしただけで厳しい罰を与えられ、処刑された。

「(一部の)政治家や官僚が、血税を無駄に使っている」

というのも、たしかに私もそう思うが

それにしても昔はもっともっと酷く、

それこそ生きていけないくらい税を取られたり

税が払えなかったが為に厳しく罰を受けたりした。


そんな日本史上の汚点のひとつに

豊臣秀吉から徳川家康の時代にかけて行われた

キリスト教の弾圧がある。

そして長崎はその中心舞台であり

最も激しく迫害が行われた地であった。

 


 小説「沈黙」


ローマ教会に一つの報告がもたらされた。
ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたクリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである。

遠藤周作の小説「沈黙」より書き出しの部分である。

司祭や信徒を棄教させようとして行われた数々の拷問。

「穴吊り」は深い穴の中に、人をグルグルに縛って逆さ吊りにする。

そのままでは頭に充血してすぐに死んでしまうので

耳の後ろに穴を開けてそこから血がポタポタ落ちるようにして

苦しみが長引くようにした。

強い信念を持った司祭や信徒達は、

この苦しみに1週間前後も耐えた上、絶命したという。

このような肉体的虐待に加え、

様々な精神的虐待をも加え、巧みに棄教を迫る。

当時、日本にキリスト教を布教しようとした外国人や

隠れキリシタン達がどれだけ苦しめられ、悩み、追い詰められたか?

小説「沈黙」を読むと、ショッキングなほどに

これらのことについて考えさせられる。

 


 26聖人殉教の地


26聖人殉教の地は、

このキリスト教弾圧の最初の犠牲者達を追悼した場所である。

1597年、豊臣秀吉の命令により

6名の外国人宣教師と20名の日本人信徒が

耳と鼻を削ぎ落とされ、京都・大阪から歩かされ長崎に到着。

キリストが十字架にかけられたゴルゴダの丘に似ている

という理由で宣教師らが願い出た「西坂の丘」で

彼らは十字架にかけられ、槍で突かれて処刑された。

現在は公園になっていて

長崎駅から歩いて5分ほどの位置にある。

 


裏手には資料館もある。

しかしどうも説明不足の感があり、

キリスト教迫害の歴史や隠れキリシタンのエピソードなどが

この資料館からはいまいち伝わってこなかった。

 


 キリスト教解禁


やがてペリーが来航し、鎖国政策が終わりを告げると共に

歴史は急展開。江戸幕府が倒れ明治政府となり、

250年以上続いたキリスト教弾圧がようやく終わりを告げた。


1865年、大浦天主堂が建てられた。

それを見て、250年以上潜伏していた隠れキリシタンが

ようやく表に出てくることができたという。

(こんなに長い迫害に耐えて宗教を守り通した例は

世界でも珍しい、とのこと。)


そして1981年、あのヨハネパウロ2世が

日本でのキリスト教迫害の歴史を聞き、この地を訪れた。

これはキリスト教信者の方々にとっては最大の喜びだったらしい。

(自分はキリスト教でないんでわからないけど)

 



 

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2003.4