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長崎ガイド
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丸山ぶらぶら散策
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かつての日本3大花街
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映画にもなった「長崎ぶらぶら節」
その物語の舞台、丸山。
そこはかつて、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ
日本3大花街として栄えた場所である。
「長崎に丸山といふ処なくば
上方の金銀無事に帰宅すべし」
(長崎に丸山という場所さえ無ければ、おエライさん方も
金を使わないで無事家に帰れただろうに。)
と、かつて井原西鶴が言ったというくらい
当時、大変な賑わいぶりだったらしい。
幕末の志士(坂本竜馬、高杉晋作…)や、
長崎にやってきた外国人(シーボルト…)など
歴史上の多くの有名人がここで遊んだという。
で、その跡地を見て回ろうというのが
丸山ぶらぶら散策、である。
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思案橋
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まずはじめは「思案橋」から。
当時、丸山の入り口には橋が掛かっており
色欲に駆られた男どもは、
行こうか?行くまいか? 橋の手前でさんざん迷ったため、
ついた名前が「思案橋」という。
が、その橋が今はもう無い。
というより、川が無い。 出島もそうだが、とにかく現在の長崎は埋立地だらけなのだ。
下の写真のようにランカンだけが道端にたたずんでいる。
思案橋跡
(道路になって見えないが、道路の下を玉帯川というのが流れているそうな。。)
現在、長崎で「思案橋」と言えば、
それは夜の街のことを表す。
「思案橋で飲む」
と言えばすんなり意味が通じる。
※「眼鏡橋で飲む」は通じない。
夜の街の代名詞・思案橋
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丸山公園
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思案橋の通りを過ぎると、丸山公園に出る。
この辺りは、カステラの福砂屋本店があったり
レトロな交番があったりと
「丸山」という感じがする場所。
気分はもう、「ぶらぶら」だ。
地元民から支持の高い「福砂屋」。
中でもこの本店で買うのが最もうまいとか…。
こちら丸山公園前派出所。略して「こち丸」。
これは「全国カッコイイ交番ランキング」
ベスト5に入るんではなかろうか。
ぶらぶら感漂う、丸山公園。
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史跡料亭・花月
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丸山公園の先には、史跡料亭・花月がある。
ここは丸山の中でも最も有名な場所。
なかにし礼の「長崎ぶらぶら節」の舞台として、
それから司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にも
何度も登場する非常に有名な料亭。
なんたって「史跡」である。
坂本竜馬が斬りつけたという柱の傷跡がある。
長崎伝統・卓袱料理が味わえる。
史跡料亭・花月
…が!
私はいまだ一度も行ったことがない。
ランチで\5,200、通常\15,000~
という値段は、いかんせん庶民には手を出しずらい。
要予約なので、その場の勢いも通用しない。
というわけで、何か特別な理由でもない限り、
そうやすやすとは行けないのが難点だ。
(とは言え、やはりココは一度は行かねばなるまいと思っている。)
花月の隣には、長崎検番がある。
検番とは、芸者さんがスタンバイしている場所のこと。
(あ、いや「連絡所」だったかな?)
最盛期の江戸時代に1500人ほどの芸者・遊女が長崎にいたという。
長崎検番
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梅園身代わり天満宮
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♪遊びに行くなら花月か中の茶屋 梅園裏門たたいて
丸山ぶらぶら ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう♪
歌にも出てくる、梅園身代わり天満宮は
花月と長崎検番の間の通りを登っていったところ。
丸山の遊女達がよく訪れたという。
梅園身代わり天満宮
梅塚(梅の玉垣)。説明文によると
遊女らは自分の家で食べた梅干の種をざわざわ持って来て
この玉垣の中に入れていった、という。
(???)
中を覗いてみると、本当に梅干の種がたくさん入っていた。(!?)
境内にあった牛の像。
↓その説明板。
「ぼけ封じ撫で牛」
自分と牛とをお互い撫でさすると封じるという。
(もちろん、私もやってみた。これで老後のボケ対策は完璧だ。)
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中の茶屋
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梅園身代わり天満宮からちょっと上にいくと
やはりぶらぶら節の歌詞に登場する「中の茶屋」がある。
♪遊びに行くなら花月か中の茶屋
ここは、料亭で仲良くなった芸者と
気分を変えて会ったりするのに使われたとかなんとか。。
中の茶屋の中の日本庭園。きれい。
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と、ここまでが丸山散策の基本コース。
そしてここから先は、ややオマケっぽくなる。
食べ物に例えれば「トッピング」か、
そんな感じで捉えるのが正解かと私は思ふ。
なぜか?
それは、観光スポットとしてはかなり中途半端だし
途中で道に迷う可能性もあるからだ。
# がしかし、そういうところを見て歩くのが
# 旅の楽しみのひとつでもある。
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高島秋帆旧宅跡
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おまけその1。
丸山遊郭とは関係ないが、
幕末の砲術家・高島秋帆の旧宅跡が近くにある。
ついでなので行ってみると…
これが入り口。入り口はかっこいい。
そしてこれが旧宅跡。
ま、まさに跡である。それ以上でも以下でもない…。
近くを見ると、「砲痕石こちら」 という看板がある。
「砲痕石ってなんだ?」
と思いつつも、矢印に導かれるまま進んでいくと 辿り着いた先にあったものは…
↓これがその砲痕石。
一見したところ、普通の石である。
その横の看板を読んでみると…
もとは上部も側面も石で囲んだ石室状のものであったが、明治33年ごろ、当時の所有者がこの石材を利用して雪見灯篭を作った。
このとき向う正面の石だけを残したのが、この砲痕石だといわれている。 |
な、なんだそれ……。 そう言えば、この砲痕石に辿り着く途中に
雪見灯篭があったのを見たぞ。
これか…。
もうひとつ、この高島秋帆宅地跡の
脱力スポットぶりを表しているのが下の写真。
敷地内で、おじさんがゴルフの練習してます。(-_-;)
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愛八さんの墓
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おまけその2。
やや離れている為、坂道を15分ほど歩かなければならないのだが
「長崎ぶらぶら節」の物語の主人公・愛八のお墓がある。
小説のファンならぜひ見ておきたいスポットであろう。
ここはぶらぶら節っぽく、ぶらぶらテキトーに歩いていったら
まず間違いなく行方不明になるので
町のあちこちに設置されている看板地図で
位置を確かめながら行くのがいい。
町のあちこちにある丸山の看板地図。(クリックで拡大)
もうひとつ、この丸山散策でヒントになるのが
地面にかかれた「足跡ぶらぶらマーク」。
このマークが時々出現するのを確認できれば、
大きくルートを外れてはいない、ということだ。
上着を脱いで歩き続けることおよそ15分。
それらしき場所に着いた。
見晴らしがよく、汗ばんだ体に風が心地よい。
が!
墓石はたくさんあれど、「愛八の墓」らしきものは見当たらない。
一体どれだ?
辺りにはやたらとネコがたくさんいる。
歩き回ること、十数分。
しまいには、ネコにどこにあるのか聞きたくなってきた。
そんな細ーい目をしてないで教えてくれよ!
おーい、そこの黒いの。
愛八さんのお墓はどこにあるんだい?
なんてやっていたら、ようやく発見。
まさか、こんなにも普通のお墓だったとは…。
(その他多くの墓と完全に紛れ込んでいる。)
愛八の墓。目立たん!
ちなみに、墓石の文字が金色なのはなぜか長崎ではごく普通、である。
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花街はなぜ衰退したか?
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ところで。
丸山の町を歩いてみて思うことは、
歴史小説に書かれているような、日本3大花街とまで言われた
かつての賑やかさが、これっぽっちも感じられないということ。
なぜ、衰退したのか?
いつごろまで栄えていたのか?
ちょっと疑問に思ったので調べてみると、
ひとつは、戦争が人々の暮らしを大きく変化させたこと。
それから時折起きた火事で家屋が焼失してしまったこと。
そして最大の理由は、昭和32年(1957年)の売春禁止法。
…そうかぁ。
昔は売春が堂々と認められていたわけか!
この点、昔の日本は今では考えられないくらい
男尊女卑の考え方が染み渡っていたらしい。
というわけで、ある意味
丸山の花街も無くなるべくして無くなっていったわけだ。
ちなみに、現在も長崎検番には芸者さんがいる。(現在わずか14名)
これはいわゆる昔の遊女とは違い、料亭での接待や
長崎くんちで奉納踊りを披露し、伝統芸能を残す為の活動をしている。
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2004.5
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